インスタント書感

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宗教練習問題

 

なるほど宗教練習問題 (新潮文庫)

なるほど宗教練習問題 (新潮文庫)

 

評価:★★★☆☆

手に取ったきっかけ

学生のころに読んだ本を読み返しました。仏教学部の科目を履修した際に、著者であるひろさちや氏の講義を受けたのですが、本書については、教科書として大学から配布されたのか、それとも彼の講義が印象に残って自ら購入したのか、記憶は曖昧です。 

 

『尻啖え孫市』で再読に至る

司馬遼太郎著の『尻啖え孫市』では、石山合戦が描かれています。雑賀衆の話題を織り交ぜて語る上で、浄土真宗は不可分の関係です。それというのも、孫市を除く雑賀衆のほとんどが浄土真宗の門徒であり、「進むは往生極楽、退くは無間地獄」の旗のもと、大いに信長勢と衝突しているのです。*1

 

現代において宗教というものは、特に日本人においては馴染みが薄いものと思われます。いつからか、初対面では避けたほうがいい話題(宗教・政治・野球)のひとつに挙げられるようになり、腫物に触るような扱いを受けていることも事実です。ただ、一向一揆などの過去の出来事からも分かるように、宗教や信仰が民衆に大きな影響を与えていたことも、また事実なのです。

 

「宗教」と聞くと、なんだか怖いもののように感じる。それはそうです。宗教に限らず、正体不明のなんだか分からないものには恐れを抱くものです。警戒心と言い換えてもいいでしょう。警戒心を解きたいなら、”対象を知る”ことです。

 

入門書らしく、ざっくばらんな語り口

前述のような意気込みで本書を読んだわけですが、気構えるような難しいことはまったく書かれていませんし、読者に語りかけるようなくだけた文章に終始しています。宗教に馴染みがない人に向けられた本なので、肩の力を抜いて読むことができます。ときに歯に衣着せぬ言い方をするので、人によっては不快に思うところもあるかもしれませんが、それは中傷や揶揄ではなく、宗教的観点であるからこその発言と理解できれば、多少は納得できるでしょう。

「宗教とはどういうものか? 宗教的な考えとは何か?」ということを、仏教に限らず、ユダヤ教キリスト教イスラム教神道それぞれの視点で解説しています。

 

「損か得か」ではない、もうひとつの物差し

これは本書の最初に書かれていることです。現代社会において、私たちは「損か得か」で考えることを やめることはできません。誰だって得をして生きたいし、たとえ他人を不幸にしても自分の欲望を叶えたいときだってあります。

 

 宗教というものは、

 ――このようにすれば、あなたは損をするでしょう。しかし、あなたはこのようにしなさい――

 と教えるものです。すなわち、「損か得か」といった世の中の物差しとは違った、もうひとつの物差しを教えてくれるものです。それが、

 ――神仏の物差し――

 です。

(開講の言葉)

 

急に「神仏」などという言葉が出てくると、ちょっと身構えてしまいそうですが、つまりは「此岸(この世)の物差しに捕らわれない考え」ということだと解釈します。先に書いた「損か得か」の考えですね。

 

インチキ宗教とホンモノ宗教の違いとして、以下のような例で解説されています。

 あなたが大学受験の合格を祈願します。(中略)しかし、あなたが合格すれば、確実に誰か一人落ちているのです。では、神仏に合格を祈願することは、

「どうか、誰か別の人を落としてください」

 と頼んでいることになります。

「よっしゃ、まかしとき。誰かほかの奴を落として、おまえさんを合格させてやるよ」

 と言われる神仏であれば、インチキ神仏にきまっています。(中略)

 ホンモノ宗教は、そんなご利益でもって誘うものではありません。もちろん、不合格になったほうがよい、と言うのではありません。合格するように努力しますが、落ちたら落ちたで、それでよいと考えます。

(レッスン8 ”インチキ宗教””ニセモノ宗教”にご用心!!)

 

ひねくれた言い方を、と思われるかもしれませんが、現役合格=幸せというのは此岸の物差しであって、その後、留年や中退する可能性もあるわけですから、結局、どれが幸せであるかは私たちには分からないのです。

 

「進むは往生極楽、退くは無間地獄」は宗教的考えとして正しいのか

ここまで読むと、決して正しいとは言えないことが分かります。『尻啖え孫市』においても、当時の門徒はこの教えでもって騙されていたのだ、ということを司馬遼太郎氏は記し本願寺を批判しています。私は彼の批判に怒りの感情すらあるように感じ取りましたが、当時は、なぜこれほどまでに、と疑問に思ったのです。

 

しかし、本願寺のある石山を守るために戦をすることこそが、そもそも宗教的観点に背いた、いわば此岸に捕らわれた考え方なのです。宗教的観点に基づくならば、「有難く退かせていただきます」と信長に譲ってしまうのが、理想論とは言え、本来のあり方です。

ですから、司馬氏は「戦から退けば地獄に落ちる」などという標語でもって煽動された門徒を憐れみ、そして身勝手なイデオロギーでもって彼らを振り回した僧たちに怒りを覚えたのではないかと私は考えます。

 

宗教的観点という考え方を知ったことにより、こういった考察に至れただけでも、個人的には収穫得たり、という思いです。

 

*1:ただし、『尻啖え孫市』は史実をかなり改変しているため、これはあくまで小説の中のお話です。PHP社が発行している雑誌『歴史街道』2014年4月号の雑賀孫一特集によると、鈴木(雑賀)孫一も門徒の一人であったことや、信長の来襲に怯えてから騒ぎする本願寺首脳部に雑賀衆が白けて批判の声を挙げていたことが顕如の書状から読み取れると解説しており、決して盲目的な信仰心から参戦していたのではない、としています。

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