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李陵・山月記

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

 

評価:★★★★☆

 

手に取ったきっかけ

山月記は、高校の国語の授業で学びました。あれから十年以上の歳月が流れましたが、いまだに解けずにいる謎があります。それは、当時の試験で出題された、以下の問い。

 

『李徴が自身を"己(おれ)"と呼ぶのはどういうときか』*1

 

高校生だった私は、この問題が解けませんでした。聴き漏らしたのか、授業中に先生の口からこんな話が出た記憶がまったくない。私は問題文を前に、その場で解答を考えました。こうかもしれない、と思い浮かぶところはあった。しかし、それを文章にできず、結局、解答欄には何も書くことができなかったのです。

 

テスト後に確認したノートにも、やはりこの問いに関する記述はなく、しかし、だからといって、友人に尋ねることもないまま、あの問いの答えはなんだったのだろうという疑問だけを残して、今日までずっと置き捨てていました。

 

解答なら、今やネットに載っているでしょうが、私はそれを見るよりも前に、今一度、山月記を読み、自分で答えを導き出さなくてはならない。そう思って、十何年越しにようやっと手に取ったという次第です。

 

私の解答

読み終えて、あまり深くは考えずに、最初はこう思いました。

 

「己の外見を猛虎に変えてしまった李徴が、その原因である尊大な羞恥心と臆病な自尊心によって、いよいよその心まで完全に支配されようとしている。李徴自身は欠点を理解しているが、無意識にも表出してしまう虎としての一面が、"己"という一人称によって表れている」

 

なんというか、いかにもそれっぽいことを、それっぽく書いてみた感。

ですが、考察している内に考えが変わりました。それは後で書くとして。

 

まず、李徴が最初に"己"という言葉を使ったときの文を抜粋します。

今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えて了うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。

この後に、"自分"という一人称で友人の袁傪に願いを申し出ます。

自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。

そして身の上を語った最後に。途中、"自分"と言っているのが気にはなりますが。

だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。(略)固より、己の運命に就いては知る筈がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。(略) 計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖、これに過ぎたるは莫い。(略)本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。

 

どうでしょうか。最初の解答のとおり、自分=人間の心を持つ李徴、己=欠点を具現化した獣の心を持つ李徴、だとして、しかし、たとえ虎に姿を変えても人間としての心の根本は変わっておらず、"己"はそんな"自分"を嘲ります。自身を"己"と呼んでいるときのほうが、よほど"自分"を客観視できているのです。

 

この山月記で袁傪と話しているときの李徴には、3種類の彼が存在しているように思います。

 1.理性を失った猛虎としての李徴

 2.ギリギリのところで人との境にいる李徴("己")

 3.人の心を持つ李徴("自分")

私は2の李徴こそが、1と3の李徴を一歩引いたところから評せられる存在だと考えるのです。

 

結局、私の解答はこのように変わりました。

 

「ここでいう"己"とは、かつて人間の姿をしていたときには存在しなかった、尊大な羞恥心も臆病な自尊心も持たない、至極冷静な自己の分析者としての李陵の表れである。彼は虎に姿を変えて、ようやく自己を省みることができている」

 

正解

「李徴の主体が虎に傾いていたり、感情が高ぶっているときは"己"を、比較的冷静であったり、冷静になろうとしているときには"自分"を用いている」*2

 

一般的な正解はこちらのようです。二つ目の私の解答とは真逆ですね。むむ。

 

前半の"己"に対する解はともかくとして、"自分"と呼ぶときの李徴は、本当に冷静だろうか? と、私はこの点、いまひとつ腹落ちしません。いかにも対称的であることを強調するように解答では書かれているけれど、自意識が高く、その身を獣に変えてもなお、詩業に凄まじいまでの執着を見せるこの男に、「冷静」という言葉を当てるのはそぐわない気がするのです。

 

長年の謎は解けたものの、なんともスッキリとしない。そんな心持ちで、山月記に対する感想、考察をここに終えます。

 

<参考>

授業デザイン 現代文『山月記』

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/text/hs1/kokugo/textbook06/shidosho_dvd/page03.htm

 

*1:人から虎に変化してしまった官吏の李徴は、林中の草叢にて友人の袁傪と再会する。このとき、李徴がいきさつなどを話すが、その一人称には、"自分"と"己"とが入り混じっている。

*2:<参考>に記載

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