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インスタント書感

「1記事3分間(最長1800字)で読める」をコンセプトに、主に読書感想を垂れ流すブログ

白い巨塔

 

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

 

評価:★★★★☆

 

手に取ったきっかけ

テレビドラマ版(2003年)→原作小説→テレビドラマ版(1978年)の順。

以下、テレビドラマ版(2003年)を唐沢版、テレビドラマ版(1978年)を田宮版と記述します。

 

先日、知人の病院へお見舞いに行った際に交わした、「週に一階、総回診がある」「ソウカイシンって何?」「ほら、白い巨塔でやってた、偉い先生が前に立って、後ろからお医者さんがぞろぞろ付いていくやつ……」という会話から。

 

 実は、当時放送されていた唐沢寿明主演のテレビドラマ版は、ちゃんと観たことがありませんでした。両親が観ていたときにちらっと目に入った、アウシュビッツ収容所と、最終回で財前の遺体を剖検室に運ぶシーンが記憶にあるだけなので、「総回診」と言われても、なんとなく様相が頭に浮かぶ程度。面白いからと勧められて観てみることにし、その勢いで原作小説を手に取った、という次第です。

 

田宮二郎主演のテレビドラマ版も教授選の途中まで観たのですが、なんせ唐沢版を観ている途中で原作に手を出し、読了を待たずに田宮版を観始めた為、少々、食傷気味になり、断念しました。冒頭、手術シーンから始まるのは知っていましたが、やけに切開の様子や臓器がリアルで、あとで実際の手術映像を使用していると知り、度胆を抜かれました。今の時代では放送できないですね……。

 

登場人物について 

唐沢版を先に観ているので、小説を読み進める際は自然とドラマと同じ演者がイメージされるのですが、田宮版を観始めると、こちらの方が原作のイメージに近いように感じました。

 

特に、里見脩二のキャラクター。学究肌で実直な人柄ですが、田宮版や原作を読んでいて意外だったのが、時として強い語調で財前に意見したり、封建的な病院の体質に激しい憤りを覚えるところ。唐沢版の江口洋介氏の里見は何事にも冷静で穏やかで、父性的な優しさが特出している分、「激しさ」という点には乏しいように思いました。ですが、彼の優しさは殺伐とした物語の中で、視聴者の拠り所という役割を十分に果たしています。

 

逆に、唐沢版のイメージが強烈に残った登場人物は、病理学の大河内教授です。教授選の選考委員に立候補するシーンや、浪速大学を退いた里見に働き口を紹介するシーンは原作ではあっさり過ぎるほどあっさり描かれていますが、唐沢版ではこの大河内教授がドラマの盛り上げ役として、かなり効果的に使われています。この人が登場すると、絶対的な正義を得たような気分になり、安心感と頼もしさを覚えるのです。

 

余談ですが、この文を書きながら、大河内教授を演じる品川徹氏が『龍三と七人の子分たち』で早撃ちのマックを演じていたことを知って、驚愕しています。まさかの同一人物。手がプルプルしているのが弱点なので、無論メスなど持てません。

 

癌の告知について

ドラマ版と原作の両方に触れて、戸惑いを覚えた点です。

 

私は、唐沢版で財前が病に臥しながらも一人、里見の病院を訪ねて検査を受け、周りからはひた隠しにされていた病名を里見の口から告知してもらうというシーンに胸を打たれました。何事も包み隠さない、嘘をつかない里見の人柄が巧みに用いられており、上手い話の作り方をするなぁ、と感心したのです。

 

ですから、原作ではその里見までもが病名を偽ることに戸惑いを覚えずにはおれませんでした。財前のときに限らず、他の癌患者の場合もそうです。作中において、「あなたは癌です」と言わないのです。

 

これは、原作が世に出た1960年代の日本ではまだインフォームドコンセントが普及しておらず、患者に癌告知をしないことのほうが一般的だったからです。唐沢版が放送された2003年時では患者と医師の病気に対する向き合い方も変化し、先述のシーンの相違はこのような時代の変化が大きく投影されたものだと言えます。

 

原作では、癌の専門医である財前は自分で己の病気を悟りましたが、たとえ末期癌であれ、信頼する里見にも真実を告げてもらえないというのは、ただ残酷の一言に尽きます。

 

<関連書籍>

 ぜんぶわかる人体解剖図―系統別・部位別にわかりやすくビジュアル解説

 

<参考>

インフォームド・コンセント - Wikipedia

 

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